2007年12月31日
ラストダンスパーティー

ヘブンに呼ばれて お店に行くと 年末なのに みんな暇そ~に していました。

今日は、ボセちゃんの 今年最後のご出勤だから 仲間を集めようってことで
ありったけのフレンドを呼び集めることになりました。
おお 久しぶりの らん丸登場!! 相変わらず 売れっ子ホストを演じてます。

踊れ踊れ DANCE ダンス!! 人が集まってきました!!

さーりんちゃんも到着! 知ってる仲間がいっぱいいて びっくりしてたね!

ボセちゃんの 生声も飛び出して 盛り上がってまりました!!

ここで、ボセちゃん 結婚を発表!! 1月4日に 結婚式を挙げるんだって!!

知り合って 5日で 結婚決めたって!!!???? すごっ!

みんな 離婚もすぐだろうなんて 予想してたね!!
そんななか しゃんちゃんは もくもくと 新しいお店作りに 励んでました^^

たまには息抜きしないと ストレスたまって 憂鬱になっちゃうぞ~~

2007年12月27日
紅白

昨日は、紅白歌合戦を祇園でみてきました。

トップバターは、いま いちばんのってる スペちゃんです。

最初は 緊張するよね 見てる方も ドキドキでした。

ナマ声は やっぱり こころに染みこみますね!!

その他に ウメコバンド (登場まで 読み込みに時間がかかったトラブルがありました)

ピアットのメンバーは、SL内で はじめてみました。


お約束のMJバンド M2Jのジェツさんが出場してました。 (久しぶりで感激)
2007年12月26日
暖炉

ソラカフェに暖炉ができました。 お店に行くと みんな暖炉の前に 暖まってて
なんか 和みますね。
そういうところに しゃんちゃんの おふざけは 欠かせないね。
そらさんも なんか頭が あたたかいって どんなに 心広いのですか。

しゃんちゃんの 新作準備 白シャツは ボーイッシュになった格好に 似合うね!

ちぇりーのお店は とりあえず 復元できたね。
また 新作活動は 時間ができたら 飾ろうね。

お隣のオーナーも遊びに来て カバーオール 買ってってくれたね。

お隣も センスの良さそうな お姉さんでしたね。
こんど 遊びに行きましょうね。
2007年12月24日
カリスマ講演


しゃんちゃんのカリスマ講演を聴きました。
柳の下にドジョウはいない。 井戸の蛙は、助けるな。
鰯で鯨を釣れ。 網に掛かるは怪魚ばかり。
しゃんちゃんの経験は、どんな人の ためになるのでしょうか。
今日は、ソラカフェの クリスマスパーティーです。
参加者には、ケーキが配られました。 って かぶるのかい。。

沖縄に行くと みんな クリスマスの衣装を着て 踊ってましたよ。
カルアさんが まだ女装して 踊っていました。 これが見納めかな。

でっかいケーキのスプーンにのって はしゃいじゃいました。

あたらしい 土地がまた 増えました。 しゃんちゃんのおかげで またまた お店がもてましたよ。
さて、ここは、どんなテーマにしましょうか? 商品を作るより お店が増えて 大変です。

新しいお店で すてきな男性を 見つけました。
私たちは 見つめ合ったまま 何も語らず 心が通じた気がします。
また いつ あなたに 会えるのでしょうか、 男物が必要になったときだけなんて 不幸だわ。
2007年12月22日
新天地

京都のモール街に 出店しました。!
とっても狭い お店ですけど これも 京都らしいかな!
観光もかねて 見に来てね!!
http://slurl.com/secondlife/JPL%20KYOTO/104/94/49
昨日は、久しぶりにBB兄ちゃまが 教会に遊びに来てくれました。

3日間も仕事しっぱなしなんですって 大変なんだなぁ。
同じSIMに ソラさんの お店も出店されて ご挨拶に行ってきました!!
とっても きれいですてきな お店なんです。 さすが そらさんだなぁ

教会は、ここです。 遊びに来てね!!
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%2010/26/149/26
2007年12月22日
撤去

突然のことですが チェリーのお店を 撤去することになっちゃって
しゃんちゃんと 解体してきました。 せっかくよくできたお店だったのに
残念だなぁ~ もう周りが無くなってて さみしいよ~。

周辺を 探索してみると 移転していた きょうこちゃんの おとなりが あいてました。
まるちゃんの土地がなんと 倍になって 移設されてることに 気付きましたよ!!
やったね まるちゃん 代替えの権利は 大きくなったね! 全然しらなかった。。。

2007年12月19日
教会
新しい土地を所得しました。
現地に行って、場所を確認しようとしたら
道路から私の土地にかけて なんか得体の知れない 物体が
横たわっていて、自分の設定ではどうしても 取り除くことができませんでした。
そんなことで ご近所さんも いろいろ 調べたりしていただいて
ご迷惑をおかけいたしました。

みんな いい人ばかりで この一件で みんなと仲良くなれました。

やっと 建物に取りかかれたので 感謝の気持ちも込めて 教会を造りました。

ステンドグラスいっぱいの 壁を作りたかったので 自分ながら 満足していますよ。
近くに寄ったときには、 見に来てくださいね。 時間設定を夜中にすると さらにきれいに見えますよ。
2007年12月11日
どんぐり

きょうは なんか てれぽできないし 調子悪かったので
なにも していません。
ソラカフェに行って ぴんぐーと 遊んでいました。
ぴんぐーが 恋人同士が幸せになれる アクセをくれました。
って なんで ぴんぐーと たっちゃんが 試してんねん。!
SSが ドングリ持ってる リスしか撮れませんでした、;;
おやすみなさい
2007年12月09日
リス

ソラカフェに行ったら リスが ちょろちょろ 走り回っていました。
しかも ぶ~ぶ~鳴いていましたよ。 こんな 鳴き声だった?
なんと さねさんは ベアブリックみたいに なっていましたよ。
芸術感覚のある人は センスがあるなぁ、 テクスチャーの作りもいいですね。

あふろんさんは あたまに 雪だるまを乗せていました。 これも 笑いを誘いましたね。

たま光さんは ミツバチのアバターなんだけど 笑ったり 羽ばたいたりできるし
頭の上の ミニ@アバターも 同じ動きをするんですよ! すご過ぎます。
一流のクリエイターさんの技術をこういうところで 差を感じてしまいますね。
遊びも一流です。

あと むくちゃんと るりちゃんの 貴重なツーショットです。
もう ラブラブ なんだから!!

もうすぐ クリスマスね。 はやく パートナー見つけないと、
すいれんたん クリスマスは 一緒にいてね!!
2007年12月08日
クリスマスドレス

どこの街にも クリスマスに模様替えしていますね。
ドレスやアクセサリーも クリスマスのデザインがあって ついつい 買ってしまいます。
今日は 着替えて 沖縄のソラカフェに 遊びに行きました。

ナナセちゃんも クリスマスドレスに着飾って とってもかわいかったよ。

クールも久しぶりに あって みんなと 踊り明かしちゃったね。

さねさんが 寝る前によってくれて お願いしたかった 床屋さんの看板を 注文しました。

どんな 看板ができるかなぁ。 楽しみです。
2007年12月07日
アイヌ民族の歴史年表
午前10時に開会した参院本会議の傍聴席では、北海道ウタリ協会や首都圏在住の関東ウタリ会のメンバーら約20人が民族衣装を着て審議を見守った。決議案が全会派一致で採択されると、道ウタリ協会の加藤忠理事長(69)らは仲間と一緒に握手を交わし、喜びを分かち合った。加藤理事長は「本当に感動した。涙が出て止まらなかったが、この涙は苦しい歴史を強いられてきた先祖のもので、これからも頑張っていきたい」と興奮した様子で話した。
ユーカラ(叙事詩)の研究・伝承に取り組む滝地良子さん(56)は白糠町の勤務先で決議の朗報を聞き「祖父母の時代から求めていたことだから、すごくうれしい」。中村斎・アイヌ民族博物館館長も「これまでのアイヌの苦悩は計り知れない。望ましい決議になった」と評価した。
アイヌ初の国会議員となった故・萱野(かやの)茂さんの次男志朗さん(50)は「かつて父は『私は苗木を植える。育てるのは後進の人たちだ』と言っていた。少しだけど、苗木が育っている。父もいい方向に向かっていると思うんじゃないかな」と話した。
評価と歓迎の声の一方で、今後の政府の取り組みには注文の声が相次いだ。先住民族としての認定や具体的な権利確立は、政府が設置する「アイヌ有識者会議」(仮称)で議論されることになる。
平取町の元町議、貝沢薫さん(71)は「国会決議が骨抜きにならないよう、政府の動きを注意深く見守りたい。今回のチャンスを逃したら、永久にアイヌの権利はなくなってしまう」と警戒する。萱野志朗さんも「このタイミングで決議されるのは北海道洞爺湖サミットがあるからだろう。『ジェスチャー』で終わったら困る」とクギを刺した。
アイヌ民族の歴史年表
アイヌ民族は本州東北部から北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)人々をさす。「アイヌ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。しかしさまざまな多少は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
東北地方アイヌの侵略・征服
488年 中国の史書「宋書」、倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」
述べる。大山は箱根を指すといわれる。
647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)、磐船柵(いわふね)、都岐沙羅柵(つきさら)を設置。渟足は現在の新潟市、磐船は新潟県村上市、都岐沙羅は秋田県南部とされる。柵(さく、き)は砦の意味。
655年 大和朝廷、難波宮で越と陸奥の蝦夷を歓待、柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。
阿倍比羅夫の蝦夷征服(日本書紀による)
658年4月 style="font-family:'MS Pゴシック';">第一回目の北征。当時、越国の国司だった比羅夫は、軍船180隻を率い日本海を北上。
658年 比羅夫、齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)と接触。有間浜は岩木川の河口、十三湖中島付近とされる。
658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。
658年11月 阿倍比羅夫、粛慎を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。
659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振金且(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いた style="font-family:'MS Pゴシック';">との記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)
659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。日本書紀ではこれに対応して「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子に貢した」とある。
660年3月 阿倍比羅夫が三回目の北方探検。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを撃破する。
海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。
5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。粛慎に関しては諸説紛々。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。
663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。
672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。
696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエ)らに錦などを送る。
和人の東北地方への侵略
700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀)。「東の夷の中、日高見国がある。男女ともに入れ墨をし、勇敢である。土地は肥沃で広大である。征服してとるべき」である。現在の仙台平野から北上川流域に広がっていたと思われる。
700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。
709年 陸奥鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。越後軍は100艘の船で最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。この征討は、「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いことを口実とする。
712年 陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のアイヌは蝦夷、日本海側(北道)のアイヌは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)
これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。
714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。
718年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)
東北アイヌの抵抗開始
720年 蝦夷(えみし)の叛乱。上毛野朝臣広人が殺される。征討軍は蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にする。
724 海道の蝦夷が佐伯宿祢児屋麻呂を殺して叛乱を起こす。勢力範囲は多賀城の北、気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。このとき設営された陸奥鎮所が、のちに多賀柵と改名される。
724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。
725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。
733年 蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡に移設される。
737年 大和朝廷の鎮守将軍・大野東人が大軍を率い、多賀城から日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷の反撃にあい敗退する。
750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵・伊治城などの城柵をあいついで設置。陸奥地方に多数の金山を開発し、本格的に採掘を行う。
757年 不孝・不恭・不友・不順の者が捕えられ、桃生・雄勝へおくられる。このころから和人の浮浪者が、数千の規模で陸奥に送りこまれる。
760年 大和朝廷の出羽支配の拠点、雄勝城(秋田)桃生城(海道)が、藤原朝刈により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる。殺人犯、犯罪者、孤児なども桃生・伊治城に送り込まれる。
772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。
東北大戦争(38年戦争)
774 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)が反乱。大和朝廷への朝貢を停止。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。
774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。
776年 大伴駿河麻呂、山海二道の蝦夷を制圧。引き続き志波(秋田県南部)から雄勝(秋田)を制圧する。出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。
778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。
780 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。
780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。
784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。
786 蝦夷征伐と東北平定を命る。
アテルイの奮戦
788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のアイヌは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。
789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を北進。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。
4月 紀古佐美軍の先遣隊4千名、衣川付近の巣伏村で北上川を渡る。これを狙ったアテルイは、急遽反転攻勢をかける。朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。
9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。
791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)
794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。
6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。
11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。蝦夷側は首457級・捕虜1501。拠点75カ所を失い、馬85匹を奪われた。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。
796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。
日高見国の滅亡
797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。
801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。
801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。
802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。
4月15日 アテルイとモレ、500余人を率いて朝廷軍に降伏。二人は平安京に連行される。
8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、田村麻呂の反対を押し切り、アテルイとモレを河内国の杜山(現枚方)で斬刑に処せられる。(椙山との記載もある)
アイヌ人の配流
802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。
803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。
804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。
805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長とせよ」との触れが出される。
805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。
806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。
809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。
811年2月 坂上田村麻呂の支持を受けた文室綿麻呂が、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。北方平定のため2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。
4月 文室綿麻呂、現地の俘囚の同盟軍を加え、2万の軍を編制。紫波城より北方の爾薩体、弊伊(ニサッタイ、ヘイ)を侵略。戦功が認められ征夷将軍に任命される。
10月 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。
812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波)
の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。
アイヌ虜囚の反乱
813年 陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。
814年 出雲国意宇でアイヌ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でアイヌ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。
847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。
848年 上総国でアイヌ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。
875年 渡島の荒狄(アイヌ?)が水軍80隻で秋田地方に襲来、百姓21名を殺害。
875年 下総国でアイヌ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。
秋田アイヌによる元慶の反乱
878年 東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。
879年2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(くさむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。
3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。
4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。
戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。
5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。
5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。
6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。
12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。
883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。
883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。
893年 出羽の俘囚と渡島の狄との戦い。国司は城塞を固めて万一に備える。
東北アイヌ、最後の蜂起
939年4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。
5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。
6月 平将門の謀反。平将門が兵13000人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。
947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。
前九年後三年の役
1050年 多賀城の国司、藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良は役務を怠り、税金も納めず、衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたとされる。
1051年11月 前九年の役が始まる。鬼切部で朝廷軍と安倍軍が衝突。官軍は散を乱して壊走。藤原登任は解任される。
1057年11月 源頼義は兵隊1800余りを率いて北上。川崎の柵(東磐井郡川崎村)近くの黄海(きのみ)で衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか6騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出。
1062年8月 源頼義、出羽に勢力を持っている狄賊の清原一族を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。9月には安倍氏の最後の拠点、厨川も陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。
1065年 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま?)の荒夷(あらえびす)と、閉伊の山徒が反乱。多賀城の源頼俊が制圧。衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すと考えられている。
1094 藤原清衡白河より外ヶ浜(青森市)まで道を開く。
1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。
1126 藤原氏(清衡)の支配津軽にも及ぶ(推定)。
1189 鎌倉幕府、奥州に侵攻し平泉の藤原秀衡を滅ぼす。幕府は奥州惣奉行を設置。
1189 大河兼任津軽で反乱。安東氏が津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。
1191 鎌倉幕府の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。
1200年頃 擦文文化の時代が終わりを遂げるとともに、大和文化の影響を色濃く受けたアイヌ文化が登場。6つの独立した部族グループがあったと考えられている。擦文文化に並行してオホーツク文化があったが、その後消滅。
東エンジウ
西エンジウ
シュムクル
ペニウンクル
メナシクル
サムンクル
南樺太の東海岸
樺太西海岸と余市、枝幸、網走
道南
石狩川上流
道東から日高
室蘭から静内
1216 鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。
安東家が蝦夷管領に
1217年 執権・北条義時、安東太郎(堯秀)を蝦夷管領(代官)に任命。「東夷を守護して津軽に住す」。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。
1223年頃 十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1229年 藤代(藤崎?)の安東氏、十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放され、安東氏が十三湊(とさみなと)に移る。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。
樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦い
1250年頃、蒙古は黒龍江の河口の奴児干(ヌルガン)に東征元帥府を置いて、河口から樺太にかけての吉烈迷(ギレミ)を支配下に置く。
1264年11月 樺太に住む骨嵬が吉烈迷を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。蒙古軍は骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。骨嵬は樺太アイヌ、吉烈迷はギリヤーク(ニブフ)人と言われる。
1268年 津軽で蝦夷の蜂起がおこる。 蝦夷管領安藤五郎が殺される。仏教を夷島に持ち込み強制したのが原因とされる。
1283年 元、骨嵬(クギ)に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。
1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。
1297年5月 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。
1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。
1308年 骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。
1320年 出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に返り討ちにされる。
1322年 津軽大乱が始まる。安藤氏で内紛。惣領安藤又太郎(季長)と従弟の五郎三郎(季久)が対立。両軍は岩木川を挟んで外が浜(青森市)と西が浜に対峙する。
1326年 鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。実体は安東家内紛への介入。季久を蝦夷管領に任命し、西が浜の合戦で安藤季長を捕える。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。
1327年 幕府は宇都宮高貞・小田高知を「蝦夷追討使」として派遣。1年後に安東家の和議に成功。季長の所領を没収し、季久の地位を安堵する。
1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。
東北地方における覇権争い
1333 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。北畠顕家が奥州に下向。
1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。
1338年 足利尊氏、征夷大将軍となる。北畠顕信は陸奥の国司となる。南部政長が糖部の国代となる。
1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。10万人(?)が死亡。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。
1361 青森県東部での南部氏と曽我氏の戦いは南部氏の勝利に終わる。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が秋田湊家を創設。これ以後、湊家を上の国、そして津軽の安藤氏を下の国というようになる。
1410年 南部守行と湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。
1411年 新たに中国大陸を制覇した明は、アムール川下流域まで進出。出先機関の「衛」をカラフトなど3箇所に設置、苦夷(アイヌ)と交易する。
津軽の安東家の滅亡
1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。
1423年 安東鹿季 兄盛季から分かれ、湊安東家を起こし、秋田湯河湊(秋田市)を本拠とする。
1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏
を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
1432年 style="font-family:'MS Pゴシック';">安東盛季、唐川城、柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。
style="font-family:'MS Pゴシック';">これにともない多くの和人が移住。
style="font-family:'MS Pゴシック';">1432年 盛季の舎弟安藤重季の嫡男である安東政季も捕らえられ、八戸南部藩に送られる。八戸南部藩当主の南部助政は、彼の武勇を惜しんで命を助け、宇曽利(下北半島)の田名部に知行を与える。(この後まゆつば物の記載が続きます)
1445年 安藤盛季の子康季、十三湊日下奨軍となる。十三奪回をめざし津軽に渡る。鰺ケ沢 (西津軽郡) 付近で戦闘を交えるが、引根城で病死。
松前における支配体制の再編
style="font-family:'MS Pゴシック';">1450年頃 和人がアイヌとの交易や漁場への進出を通して蝦夷地南部に勢力を張る。 style="font-family:'MS Pゴシック';">西蝦夷は余市まで、東は鵡川付近まで和人集落が形成されていた。道南地方沿岸には安東氏系列の豪族拠点が形成され、「十二館」と呼ばれた。安東氏宗家は松前の大館を拠点とし、蝦夷監領として豪族を束ねる。「新羅の記録」によれば、箱館には毎年若狭から商船がきて浜に架け作りの問屋を設け、柱に船を繋いだという。この頃の道内アイヌ人人口は約50万人と推定される。
1452年 武田信広、陸奥田名部(下北半島)に来て、邑主蠣崎蔵人の領地を管理する。蠣崎蔵人は元武田蔵人を称す。芸州武田氏の系列で、乞われ蠣崎家に入る。蠣崎家は元安東氏の系列であったが、南部の軍門に下り所領を安堵される。
前後の経過より見て、蠣崎蔵人と武田信広は同一人物と思われます。蠣崎は地名で、田名部から西に30キロ、青森湾を隔てて青森市と向かい合っています。上の国の蠣崎家は、ここの蠣崎家からの分家と思われます。蠣崎季繁=蠣崎蔵人説もあるようです。武田信広は「若狭国の守護、武田信賢の子。相続争いに敗れて蝦夷地に渡った」と称していますが、芸州の武田家にも、若狭の武田家にも信広の名はないそうです。福井県立若狭歴史民俗資料館に 小浜市龍泉寺の古文書が残されており、松前家が祖先信広の出自を明確にするため、 家臣を調査に派遣したときの記録が残されているそうですが、その結果はネガティブだったようです。実体は不明ですが、若狭商人につながる人物の一人と考えられています。
1453年 康季の子義季は再度津軽奪回を計る。大浦郷狼倉(おいのくら)・高舘山で、南部勢に攻められ自害。安藤氏本家断絶。
54年 南部助政が死亡。後継の光政は、安東政季の抹殺と宇曾利(下北)の全面支配を策す。安東政季は、後南朝推戴を名分として挙兵。南部軍に強力なダメージを与える。
54年8月 安東政季、下北半島を脱出し大畑から渡島に渡る。武田信広・相馬政胤(相原?)・越智政通(河野?)等も一緒に海を渡る。渡島に渡った安東政季は、義季亡き後の蝦夷管領を引き継ぐ。
コシャマインの第一次反乱
1456年春 志海苔の鍛冶屋村で、オッカイが一人の鍛冶屋にマキリの製作を依頼した。オッカイと鍛冶屋はマキリの出来栄えについて口論となり、頭に血が上った鍛冶屋は、そのマキリでオッカイを刺し殺した。
オッカイは近くのコタンの首長の子、なお「オッカイ」は固有名詞ではなく、アイヌの男の子をさす一般名詞とも言われる。「マキリ」とはアイヌ人が持つ携帯用の小刀である。
56年夏 アイヌ人集団、オッカイを殺害した鍛冶職人の住む志海苔の鍛冶屋村を襲撃。女子供問わずに虐殺したという。その後志苔館(館主・小林良景)を攻撃。秋の狩のシーズンを迎え、反乱はいったん収束。
56年夏 蝦夷管領・安東政季、秋田檜山の安東氏に招かれ家督を継ぐこととなる。のちに湊安東氏と合体して秋田安東と改称する。
56年秋 安東政季、道南十二館の館主を茂別館に招集。自らが蝦夷地から去ることを告げ、後継者として武田信廣を推挙する。信広が固辞したため、蝦夷管領職は安東政季が続けることとなり、三名の管領代を任命する。(後継者推挙とか固辞とかは明らかな作り話であろう)
56年 「三守護体制」が施行される。上の国の武田信廣、松前の下国定季、茂別館を中心とした「下ノ国」の安東家政(政季の弟)が守護となり、その下に館主を置く。松前の補佐役に相原政胤、下の国の補佐役には河野政道が就任。(上の国の守護は当然蠣崎季繁のはず。松前側の後代の脚色であろう)
1456年 武田信廣と蠣崎季繁の娘のあいだに光廣が誕生。(松前家の公式記録)
56年9月 蔵人の乱。下北半島蠣崎の武田蔵人信純、八戸の南部政経の干渉に対抗し挙兵。秋田安藤氏・葛西氏や越後・能登などの豪族の支援を受け、アイヌ人3万2千を動員。野辺地城を攻囲、さらに横浜地方と六ヶ所の泊付近で南部藩とのあいだに激戦。その後七戸城も陥落させる。七戸城主南部政広は討死。
56年11月 八戸政経が軍を発し、七戸・野辺地城を奪還。
1457年2月 八戸政経、野辺地から海路蠣崎を攻める。武田信純は敗北し大畑から蝦夷に逃亡する。しかし信純の名は蝦夷地の歴史にはまったく登場しない。(「東北太平記や八戸家伝記は57年2月の発生としているが、粉飾も多く史料としては決定打に欠ける」との説あり)
コシャマインの第二次反乱
1457年5月14日 オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするアイヌ同盟軍が蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ約二千強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもなく陥落。小林良景は箱館に避難。アイヌ軍はこれを追うようにして箱館を攻撃。まもなく箱館も落ちる。小林良景と箱館の河野政道は茂別館に逃げ込む。
5.17 箱館を占拠したコシャマイン、もべつ館の包囲に入る。別動隊は海沿いに西へ向かって進撃。中野館、脇本館、穏内館と次々に陥落させ松前大館を包囲。大館に籠もった下国定季は蛎崎繁季に援軍を求めるが、蛎崎繁季の援軍は途中でアイヌの伏兵に遭い敗走。
5月下旬 アイヌ軍、松前の大館を落とす。館主の下国定季は捕虜となる。コシャマインは大館の警備に三千人を配置、タナケシに二千人をつけ花沢館攻略に向ける。タケナシは松前から海岸沿いに上の国に侵攻。原口館、比石館、禰保田館を次々に落とし花沢館に迫る。西部アイヌも南下し、これに合流。
5月末 上の国の武田信廣、タナケシの部隊を迎え撃ち、これを殲滅。
花沢館の戦い: 信廣はわら人形を花沢館の柵沿いに並べ立て、アイヌに附子矢(毒矢)を撃たせた。そしてこの矢をアイヌ側に撃ち返し多大な損害をあたえた。うろたえたタナケシが森の中に潜むと、信廣は森のまわりに油を撒き火を放った。森の中から逃げ出してくるアイヌは信広軍の餌食となり、軍は全滅した。
6月初 武田信廣率いる軍勢、約1500名は大館奪還作戦を敢行。大館の裏山から逆落しに突入、下国定季を救出する。これに成功した後、原口館、比石館、禰保田館を順次奪還。
6.18 武田信廣軍、茂別館に入城。志海苔、箱館をふくむすべての和人兵がモベツに結集。これに対しコシャマインの兵は3千あまりに減少していたとされる。
6月20日 和人軍はモベツから七重浜に出て、一進一退を繰り返しながら箱館のアイヌ軍を誘い出す。コシャマインは七重浜に進撃するが武田の計略にはまり敗死する。コシャマインの死を機に形成は逆転。(一説に、花沢館の守護を務める蛎崎季繁、偽の敗北宣言を発しコシャマインに和議を申し入れる。武将武田信広は和平会談に現れたコシャマインを謀殺とあるが、これは後のタナイヌ、タリコナの蜂起との混同であろう)
えのもとさんのページから: 信広は負けて森の中に逃げるふりをすると、コシャマインは勢いにのって追撃してきました。木のほら穴でようすをうかがっていた信広は機をみて強弓を射放しコシャマイン父子を射殺すると、おどり出てその部下数人を切りたおしました。
8月 信広は花沢館の川向かいに州崎館を建設。その後さらに新しく拠点として堅固な「勝山館」を築く。
1459年 上の国蠣崎家の重臣小山隆政、大館ともべつ館の両下国氏とつるんで、蠣崎信廣打倒を企てるが、発覚し殺害される。
67年 応仁の乱が発生。
1469 蝦夷蜂起
1473 蝦夷蜂起
82年 夷千島王(安藤政季?)、朝鮮に使者を遣わす。
88年 安東政季、家臣の長木大和の謀反にあい、河北糖野館で自害する。
94年 蠣崎信広が死去。享年64才。
1496年11月 蛎崎光広をはじめとする渡党の館主たちが、秋田檜山の安東忠季に守護職下国恒季の悪政を訴える。恒季は粗暴の行為が多く、 罪のない人を殺害したり、 若い女性を人身御供として矢越岬に沈めたりしたという。忠季はこれら渡党の館主たちの意向を受けて松前大館に討手を差し向ける。恒季は安藤忠季の命によって自害。後任の守護職には相原季胤が就任。
96年 アイヌに襲われ茂別館は陥落。館主安東家政は蠣崎光廣から泊館を与えられる。
ショヤ・コウシの反乱
1512年4月 東部の村長ショヤ(庶野)、コウシ(匐時)兄弟が蜂起。下国守護領の残滓である志海苔館、箱館、与倉前館を強襲。箱館の河野季通、志海苔の小林良定、與倉前の小林季景たちは自害。安東氏の浄願寺は蜂起を避けて秋田に撤退。蠣崎光広、義広がこれを撃退。反乱軍はいったん攻撃を止める。
箱館は、もとウスケシ(宇須岸)とよばれていた。函館山麓にあった河野氏の館が箱形だったことから、箱館というようになった。天然の良港だが、2度もアイヌ軍に攻めおとされてさびれ、和人は亀田に移った。与倉前館は12館には入らず志海苔館の支城的役割を果たしていたとされる。函館市高松町の海岸沿いにあった。
13年6月 ショヤ、コウジ兄弟が前年に続き攻撃。福島町館崎地区の穏内館も炎上・陷落。館主蒋土季直は自害。
13年6月 アイヌ軍、松前の大館を陥落。守護職の相原季胤、村上正儀らを討ち取る。蛎崎光広がアイヌ軍の仕業に見せかけて攻めたとの説、ショヤ、コウジ兄弟は光廣の手先だったという説もある。
14年3月 空城となった大館に突然蠣崎光広が乗り込む。180隻の兵船を率い、長子義広と共に移動。大館を改修して徳山館と名付け、本拠とする。勝山館の守護には、光広の次子高広をあてる。
光広は転居の理由を述べた文書を檜山安東氏に送り、安東氏の下で代官に任命することをもとめるが、安東氏は二度にわたりこれを拒否。光廣は紺備後という能弁の浪人を雇って交渉させ、ようやく了承を得たという。
1514年 蝦夷地にくる諸国商船から税金を徴収する権利が与えられる。アイヌに占領された箱館に代わり、松前が蝦夷地貿易の拠点となる。
1515年6月 ショヤ、コウシ兄弟のアイヌ軍が蜂起。徳山館を攻める。蛎崎光弘は和睦すると見せかけ、会見の酒席で両者を暗殺。
えのもとさんのページから: 光広は女たちにキヌタを打たせて武装の音をかくし、あらかじめはずしておいた部屋の戸をたおして切りかかり、みな殺しにしてしまいました。遺骸は小館下の東に埋められ、蝦夷塚と称された。光広が斬込の際に用いた大刀は、信広が蠣崎季繁から拝領したもので、のち松前家の重宝となる。
1525春 東西蝦夷の蜂起。各地のアイヌによって多数の和人が殺される。蛎崎氏は天之川流域と松前を結ぶ戦線にてこれを防戦した。
1526年5月 徳山館にアイヌの来襲。
タナカサシ(タナイヌ)親子の反乱
1527年3月 西部の瀬田内で首長タナサカシ(一説にタナイヌ、タナケシ)の指導するほう起。瀬田内館は落城し館主の工藤祐兼は戦死。義広は上ノ国勝山の和気館(和喜館?)を前進本部とし、工藤九衛門の率いる攻撃隊を瀬田内に派遣する。タナイヌはこれを打ち破る。(別の記述では、工藤九郎左門祐兼と祐致(すけとき)の兄弟に兵を授けてこれを討たせたが、祐兼は瀬田内甲野(かぶとの)(北桧山町)に敗死し、弟祐致は熊石町雲石に逃れた、とある)
1528年5月 タナサカシの部隊、松前義広の居城徳山館を夜襲するが失敗。このとき義広自らが槍を振るって撃退したという。
1529年3月 タナサカシが上国の和喜館を攻撃。義広は不利を悟って和睦を乞い、「ツグナイ」の品を城外の坂の途中に置いた。これは策略であった。タナサカシ勢がこれを回収するところを不意討。タナサカシを射殺。あわてた蝦夷軍は逃げ散ったが、天ノ川は雪解水が増水して渡ることができず、館下の菱池に追い込まれ皆殺しにされたという。
1531 タナサカシの女婿タリコナが蜂起。徳山館を襲撃。嫡子季広の奮戦で撃退した。その後も5年間にわたりタリコナのゲリラ戦が続く。
1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。
(これについてはだまし討ちではなく、待ち伏せ作戦で討ち取ったという説もある)46年 西津軽深浦に居を構える河北森山舘の安東定季が、津軽奪還を目指し兵を起こす。4代目当主の蛎崎季広は小泊に渡り、搦手の大将として作戦に参加。以後北畠家滅亡までに7回の出陣。
和人=アイヌ合意の成立
1550 李広、相次ぐアイヌの反乱を前に妥協を図る。瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の代表)、知内の首長チコモタイン(道南東部の代表)のあいだで合意。
和人=アイヌ合意の内容: 知内と上の国を結ぶ線の以南を和人、以北をアイヌの住居域とする。ハシタインを上の国天川の蝦夷役に、チコモタインを東部の蝦夷役に任じる。和人支配域はコシャマインの反乱の時期から1/3に減少。
1552年 蠣崎家は「夷狄の商舶往還の法度」を制定。蝦夷地に到来する商船から徴税し、これを両蝦夷役に配分するなど権利と権威を付与。アイヌたちは季広をカムイトクイ(神の友)と称して尊敬した。これにより蠣崎家は本州交易の独占的支配者として特化し、アイヌに対する支配体制と交易の優位が確立される。
1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録。
1590年2月 大浦(津軽)爲信が津軽浪岡の北畠顕慶を攻撃。季広は83歳で出陣。安藤家に忠義を尽くす。この間、季広の子慶広は、豊臣秀吉の奥州仕置にかかわる。
松前家の大名への昇格
90年9月 奥羽検地(奥州仕置)。津軽・秋田地方に前田利家、木村重茲、大谷吉継らが乗り込む。慶広は津軽に渡海して前田利家に面 会し、秀吉への取り成しを依頼。
12月 秀吉は奥州諸大名に朝勤を命じる。蠣崎慶広はこれを契機に中央接近策を展開。桧山安藤家の当主実季と共に上洛。秀吉と聚楽第で謁見。蝦夷特産の鷹を献上し従五位下民部大輔に叙される。これにより蠣崎家は、安東氏の代官の地位から、同列の大名となる。
1591 東北地方で南部氏の一族九戸政実が反乱。秀吉は6万余の大軍をさしむける。慶広は独立の大名として和人の家臣団とアイヌを率いて出陣。「蝦夷が射た矢はかならずあたり、たとえ軽傷でも死なないものはない」と評判をとる。(「氏郷記」によれば、九戸勢の中にも夷人が二人いたとされる)
1593年1月2日 豊臣秀吉、朝鮮征討令を発する(文禄の役)。蠣崎慶広は肥前名護屋に出陣して秀吉に謁見。秀吉は慶広を志摩守に任じ、江州に馬飼所三千石を与えようとする。慶広はそれを辞退し、木下吉政を通 じて国政の朱印(蝦夷地の領主)下賜を願い出る。
1月6日 蠣崎志摩守に任ぜられ、「蝦夷島主」の呼称と船役徴収権を認めた御朱印の制書(朱印状)を下賜される。このとき慶広は参陣していた徳川家康にも会い、樺太渡来の道服を献上する。
物騒な朱印状: 諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事
1593年 帰国した慶広は、アイヌを集めて朱印状を読み聞かせ、「志摩守の命に背けば関白様が数十万の大軍で征伐にくる」と威厳を誇示したという。
1599年 秀吉の死後、慶広は家康に接近。大阪城で徳川家康に謁見。蝦夷全島絵図と家譜を献じ、姓を松前氏と改め、臣従の意を表明した。松前の名はアイヌ語で渡島半島を表すマトウマイヌからとったとされる。
1602年 安東家、常陸国宍戸(茨城県友部町)に移封される。
1604年 徳川家康、松前家に黒印状(いわゆるお墨付き)を与え、蝦夷地における交易の独占を認める。この黒印状により、和人の商船は全て松前藩を通してアイヌとの交易を行う事になり、アイヌの本州島の和人との直接交易は禁止された。
1604 千軒金山が発見される。 徳川幕府は
「山方三法」 を定め、 総ての鉱山は幕府の直営としているが、 松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、 鉱床・鉱区が特定出来ないとの理由で松前氏に下賜した。
1606 松前慶広、徳山館の南側の台地に新しく福山城を建設。城下町を構築し、蝦夷地貿易の中継点とし、蝦夷地での交易を行うすべての商船に対し、松前城下での検閲を義務化する。また交易場所も指定する。亀田と熊石に番所を置きそれより奥地への和人の立ち入りを禁止。
「場所とは領分のようなもので、何れも海辺ばかり、一場所およそ50里から70里。奥は皆空地にして、人跡絶える深山、広野のみなり」 『蝦夷草紙巻之一』
15年 大阪夏の陣。慶広は自ら兵を率いて出陣。
松前金山とキリシタン
1617 松前の千軒岳周辺の礼髭・大沢両村で砂金が発見される。松前藩、砂金鉱の開発に着手。最初は千軒岳周辺河川、のちに島牧、国縫、日高の各河川に広がる。おりから東北地方が元和の大飢饉となり、松前はゴールドラッシュとなる。数万人の和人「入稼ぎ者」が北海道各地へ流入。砂金掘り・浜辺での漁業・樵などの労働力として働く。内地からやってくる砂金掘人夫をほとんど制限なしに受け入れる。
流れ者による被害: 南部・松前・秋田・津軽の出身者が多かった。中には、迫害を逃れて渡航してきたキリシタンも多数いたといわれる。砂金採掘のために流域が荒らされた。造材のために森林が破壊された。また漁業者が河口で鮭を多量に捕獲したことから、内陸部アイヌの魚場への遡上数が激減。各地のアイヌの生活は圧迫される。
1618年6月 イエスズ会のジェロニモ・D・アンジェリス神父、松前に10日間滞在。キリシタン宗徒に福音を与え若干の人に洗礼を授ける。松前藩は幕府の禁令を無視し、「天下がパードレを日本から追放したけれども、 松前は日本ではない」とし、キリシタンの活動を容認。
アンジェリス神父: シシリア島生まれ。18歳でイエズス会に入会し、インドのゴアからマラッカを経て中国のマカオへ派遣される。1602年に日本に着いたあと京都伏見の修道院で日本語を学び、その後京都から駿府付近までを持場として布教活動。キリシタン禁教令を受け長崎で船待ちをしていた時に蝦夷地訪問を決意した。カルワーリョ神父: ポルトガルのコイムブラ生まれ。1613年に日本に入り天草に赴任。キリシタン宗禁教令によって長崎から追放されたが、16年に密入国。アンジェリス神父の補助として東北地方で布教活動。
1620年8月 ディオゴ・カルワ-リュ神父が松前に潜入する。慰問とミサ聖祭を行うため、知内川上流一帯のキリシタン集落を訪れる。カルワーリョは死の直前、二回目の松前訪問をしたとされる。
カルワーニュの旅行記: 毎年300隻以上の大船が松前に集まると記録。「松前殿が士達に支給する知行は、近くの河川ですから、そこで漁れる魚がすなわち彼等の収入となります」とされ、アイヌから、ラッコの毛皮、鮭や鰊、緞子(蝦夷錦)などの交易品がもたらされる様子などが記録される。また、蝦夷地に渡航する砂金掘りの人数は、1619年に5万人、1620年には3万人と記述されている。
1623年 アンジェリス神父(55)、カルワ-リュ神父(46)、家光の禁令強化により相次いで殉教。
1624年 アイヌのあいだで最初の痘瘡の流行。
1630頃 商場知行制確立。カラフトやアムール川、東北地方まで出向いていたアイヌの自由な交易活動は禁止され、独占的な「交易」により不利な交換レートを強要された。これ以後、アイヌの生活は大きな圧迫を受ける事となる。
商場知行制(あきないばちぎょうせい):
米の収穫がない松前藩は、蝦夷地61ヶ所にアイヌ交易地を作り、家来に交易権を与えた。これを商場あるいは場所といい、権益を与えられた家臣は知行主、俗に場所持ちと呼ばれた。これによりアイヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定されることになる。場所持といはれる家臣は、延宝元年には四十八人、普通の切米扶持の武士が百二十人、徒士足軽用地下侍百人余であった。 知行主は年に一度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益で暮らしをたてた。商場知行制で無高大名であった松前領は十万石級の暮らしであったという。
1633年 和人居住区が拡大される。函館東側の石崎を東端とし乙部までを北端とする。
33年 松前藩、数次にわたり奥地を探検。蝦夷の地図を完成させる。
38年 ロシア、オホーツク海に到達。南方進出に着手。
1635 松前藩士村上掃部左衛門、藩命により蝦夷島を巡行し地図を作成。これを「島巡り」という。
1639年 松前藩、島原の乱のあと幕府の圧力に屈し、千軒岳の砂金鉱で働いていたキリシタン106名を処刑。この年だけで大沢金山で50人、石崎で6人、千軒金山で50人が殺されたという。なお金山の検司 (死) 役人として処刑に立会した池木利右衞門という藩士が、
五十年後の記録には古切支丹 (キリシタン本人) であったことが明らかになっている。
1640年頃 蝦夷地の産物を上方などへ輸送する「北前船」が、この頃より盛んになる。
シャクシャインとオニビシの抗争
1640年頃 この頃のアイヌ内部の勢力圏は、①内浦湾西岸部:アイコウインを大将とし、松前藩のお味方とみられていた。②余市方面:大将八郎右衛門の部族。宗谷方面にも支配がおよぶ。③石狩中流域:ハウカセ大将の部族。④新冠から胆振、石狩南部:シュムクル(西の人)と呼ばれる。シュムクルはパエ(門別)を本拠とし、オニビシが首長を務める。⑤静内以東厚岸方面:メナシクル(東の人)と呼ばれる。シプチャリ(静内)を本拠とし、首長はカモクタイン、副首長がシャクシャイン。1200年の項と比較されたい。
1643 セタナイのヘナウケが松前藩の横暴に抗議し蜂起するが、松前軍により制圧される。
1643 オランダ東インド会社のフリーズが十勝沖に現われ、厚岸に寄港。その後樺太とウルップ島に到達。ウルップ島の領有を「宣言」する。オランダで作られた地
